2012年7月20日金曜日

アップルのブランド構築。<シンプル>を貫く哲学。

 あのiMacは、最初『マックマン(MacMan)』という商品名で発売されそうになった。ソニーのウォークマンを連想させる商品名。今となっては驚くべき事だが、スティーブ・ジョブズは、わざとソニーを連想させるような商品名にしようとした。これにストップをかけたのが『iMac』という商品名を生み出したクリエイティブ・ディレクター、ケン・シーガルだ。ケン・シーガルは、 アップルの「Think Different」キャンペーンに携わり、「iMac」と命名した伝説的クリエイティブ・ディレクター。 今回ご紹介する本は、ケン・シーガル著 『Think Simple アップルを生み出す熱狂的哲学』(林信行:監修・解説  高橋則明:訳)。アップルとジョブズが、如何に「シンプル」という哲学にこだわっていたかを、著者ならではの実体験を交えて解説した書籍である。著者ケン・ シーガルは、デル、IBM、インテルなどの広告キャンペーンも担当していた。ジョン・スカリーがCEOだった時代のアップルも担当している。それらを総合的に比較評価できる人物なのである。彼はアップルと他のライバル企業を比較し、アップルの昔と今を比べる事もできる。なぜ『マックマン(MacMan)』という商品名を止めて、『iMac』という商品名を採用したか。その経緯も、この書籍に述べられている。

 この書籍では、ジョブズとアップルが、様々な局面で<シンプル>を追求する姿が述べられている。会議、広告、ネーミング、パッケージ、ウェブサイト、ブランド・イメージなど様々な要素が具体的な事例と共に登場。著者によれば、「<シンプル>を追求するアップルの姿勢は、他の企業では見られないレベルであり、単なる熱中や情熱を超え、熱狂の域にまで達している」そうだ。それは、ジョブズから始まった事だが、いまやアップルという企業のDNAに深く刻み込まれているという。意思決定プロセスや製品コンセプト構築において、無駄を省きポイントを絞り込む重要性は、誰でも思いつく事だ。ところが実際に行動に移すとなると、とたんに難しくなる。アップルは、<シンプル>を貫くという哲学を、組織として体現しているからこそ傑出した印象を残せるのだ。なぜアップルでは、このような事が組織的に可能となったのか。私は、この書籍を読んで、スティーブ・ジョブズのリーダーシップが重要な力であったと痛感した。この書籍を読むと、“リーダーシップとは何か?”を深く考えさせられる。

 野球でもサッカーでも、勝利を掴み取るにはチームワークが重要だ。 個別のメンバーが好き勝手に行動したり、モチベーションが低くては勝利など覚束ない。アップルのような巨大企業でチームワークを維持するのは、なおさら難しいだろう。かの「Think Different」キャンペーンは、一般の消費者だけではなく、アップルの社員もターゲットにしていた。著者によれば、絶滅の危機に直面している企業は通常、生き続けるために何でもする。しかし大抵、ブランド確立キャンペーンの費用捻出はそこに含まれない。ジョブズが復帰したときのアップルは、まさに絶滅の危機に直面していた。そのような状況で、ブランド確立キャンペーンに相当な資金を投入するのは、確かに図太い神経だ。メディアから辛辣に叩かれ、迷走する経営に疲弊し、アップルの社員は目標と士気を失っていた。アップルに復帰したジョブズは、「Think Different」キャンペーンによって、社員に“目標”と“誇り”を取り戻そうとした。「Think Different」という言葉は、アップルの本質を表現し、顧客の琴線に触れた。そして社員には、閧(とき)の声となった。通常の思考を踏み越えてこそ世界を変えられる…。「Think Different」キャンペーンのCMは、今見ても心を揺さぶられる何かを感じる。ジョブズが亡くなった今となっては、なおさらだ…。

 スティーブ・ジョブズの経営スタイルは、マイクロマネジメント。プロダクト・デザイン、基盤設計、OSの操作性、マーケティング、広告メディアの選択など、ありとあらゆる細かい要素について情報を吸収し、スタッフに意見を投げかける。いわゆるMBA(経営管理修士)的な経営スタイルは、「大局的に経営状況を把握し、細々としたプロセスは各部門長に任せる」というものだろう。ジョブズのスタイルは、明らかにこれとは対極にある。ジョズブは細かい情報も把握し、同時に大局的な視点も失わない。歴史に名を残す映画監督の仕事ぶりを思い出す。まるで、黒澤明を見ているかのようだ。巨大企業の複雑な組織は、放っておくと必ず“混沌”が蔓延する。ハッキリとした指針を示し、細かい情報を把握した上で、余分なコンセプトや機能を削ぎ落す。組織にはびこる“複雑さ”、“混沌”を取り除く。これがジョブズのリーダーシップだと思う。

 スティーブ・ジョブズは、次のように語っていたそうだ。

イノベーションをするときに、ミスをする事がある。最良の手は、すぐにミスを認めて、イノベーションの他の面をどんどん進める事だ。

  ジョブズは、“真に優秀なスタッフ”を見抜く力を持っていた。彼らの言葉には、真摯に耳を傾けた。熟慮の末、自分が間違っていたと気づけば、素直に彼らの意見を取り入れた。決して頑に自分の意見を押し通し続けた訳ではない。ジョブズは、自分の間違いを認める「強さ」と、大改革に挑む「心意気」を持っていたのだ。今の日本は、あらゆる業界とあらゆるシステムが変革を求められている。ジョブズの語った言葉の意味を噛み締める事には意味がある。

         
                                    
                                                         「Think Different」キャンペーンCM


                                  
                                                                           iMac CM




2012年7月8日日曜日

音楽業界にいた者として、“違法ダウンロード刑事罰化“を考えてみる。(その3)

 前回の投稿では、音楽業界における裏事情の一端を御説明した。音楽ビジネスにおける権利と法律に関しては、ここでお話しできない事も含めて、ディープで清濁入り交じった世界だ。しかし音楽業界及び出版業界や映画業界、そして放送業界などコンテンツ産業全体が、技術環境的にも社会環境的にも大きな岐路に立たされている事は間違いない。長らく業界に染み付いている慣習と既得権益そして旧来のビジネスモデル。それらを見つめ直し真剣に向き合い、根源的な変革を実行する事を迫られているのだ。今回は、iPadなどの新しいメディアインフラが、 コンテンツ産業に与える影響について考えてみたい。

3. iPadなどの新しいメディアインフラが、音楽や映画に与える影響

  iPadが凄かったのは、統合開発環境とハードウェアそして課金の仕組みが、トータルで整備された状態で登場した事だろう。iTunesとiPodそしてiPhoneで既に環境が整備され、そのコア・ユーザーが確保されているところへiPadが登場した。iPadは、アプリが無ければただの持ち運べるディスプレイだ。魅力的なアプリがあってこそ、iPadというハードも魅力があるものとなり得る。アップルは自社でOSとハードを設計した。またアップルは、自社でアプリを開発したし、他社のアプリも準備された。全てを野放しにしたら、ハードとユーザーインターフェイスの設計、そして総合的なアプリの完成度やコンセプトが、各社によって一貫性のない混沌とした状態となっただろう。基盤となるOSから、それの動くハードウェア。開発環境からアプリの販売と課金システムまで、トータルでアップルが生み出したからこそ、iPadという戦略と、そのデザインの一貫性を保てたのだ。

 今後iPadアプリの技術が高度化していけば、音楽と出版そして映画や放送は境界線が曖昧になっていく可能性があるのではないか。CDジャケットに代わるヴィジュアル・データと音楽データを統合的にデザインして、iPad用のアプリとして配信すれば、CDアルバムに変わる新しい音楽商品となる。紙に印刷される雑誌を、各ページ毎に画像化して電子書籍にするのではなく、雑誌的な世界観を最初からiPad用のアプリとして編集する事もできる。ヴィジュアルを重視した雑誌編集のノウハウを活かし、文字原稿を写真や動画と組み合わせて、モーショングラフィック満載のマガジン・アプリとしてまとめるのだ。近年、映画はフィルムレスが進んでおり、映画館ではデジタル上映が普及している。最新公開の映画本編が既にデジタル化されているのだから、それをストリーミング映像とし、メイキング映像や様々な作品情報と統合的にデザインし、アプリとしてまとめる事もできる。劇場公開と同時に、iPadにも映画を配信してしまうのだ。スポーツ中継のライブストリーミング映像と文字情報や各選手の経歴・成績を統合的にデザインしてアプリにする事もできる。

 上記のような場合、アプリを動かすハードも技術も共通だが、それぞれのアプリは音楽、出版、映画、放送それぞれの業界における商品の延長上に派生するものだ。内容によりジャンル分けする事ができるが、見た目はiPadで動くアプリである事には変わりない。音楽業界が送り出して来たCD(コンパクトディスク)の延長上にアプリが派生し、出版業界が送り出して来た雑誌・書籍の延長上にアプリが派生し、映画業界が送り出して来た劇場用映画の延長上にアプリが派生し、放送業界が送り出して来たTV番組の延長上にアプリが派生する。かつては、CD、雑誌、映画、TVというように物理的に全く別々の形態であったものが、iPad上ではアプリという共通のエンターテインメントで形を現してしまう。アップルは、iPodで音楽業界に革命を起こした。iPadで出版業界に激変をもたらそうとしている。今後は、映画業界、放送業界にも激震が走るのかもしれない。アップルのiPad以外のタブレット端末も多数発売されている。それらが普及すれば、なおさらコンテンツ業界は様々な対応を迫られるだろう。アップルは、薄型TV市場やカーナビ市場にも踏み込もうとしている。そこでも様々なアプリが投入されるだろう。

 CD、書籍、映画、TVという形態がいきなり消え失せるという事はない。 それぞれにiPadアプリとは違う魅力と感動、そして利便性がある。それと同時に、それぞれの業界に特有の慣習と既得権益そして旧来のビジネスモデルも存在する。スティーブ・ジョブズの凄い所は、OS、ハード、開発環境から販売・課金まで、一連の流れを全てアップルが保有し、その発想力が各業界の慣習や既得権益を飛び越えてしまう所にあるのだろう。普通は、業界との敵対を恐れて守りに入ったり、資金的リスクを恐れて一部を他社に任せると思う。よほどの揺るがない信念と強い意志力の持ち主なのだ。iTunesのスタート時に、アップルがレコード会社との複雑な交渉に成功したのは、スティーブ・ジョブスが自ら乗り出したからだった。ジョブズは音楽マニアで あり、何より音楽を心から愛していた。彼の、音楽を愛する全身全霊の情熱が、ミュージシャンやレコード会社の重役の心を突き動かしたのだろうと思う。だからジョブズは、音楽の権利問題をクリアできたのだ。彼の魂の迫力が、最終的には業界のしがらみや複雑な既得権益の壁を突き破ったのだと感じる。

 日本の音楽業界や出版業界における権利問題は、アメリカより複雑だといって良いだろう。 日本独自の慣習や特有のルールが存在するからだ。音楽業界の原盤印税や再販制度、出版業界の委託販売や出版契約、日本映画の製作・配給・興行の一体化と系列、放送と通信との境界線。旧い慣習や既得権益を守る事に執着すると、イノベーションに歯止めがかかるし、何よりもビジネスチャンスを逃してしまう。しかし、現状維持バイアスが強力に効いて、なかなか既成概念と独特の組織体質を打ち破る事ができない。日本のコンテンツ産業も正念場だ。特に音楽業界は、大きな転換期を迎えている。音楽の聴き方、販売方法、物流、収益の上げ方は大きく変貌しつつある。そして、音楽の存在意義が問われている。“違法ダウンロード刑事罰化“は、音楽を生み出すクリエイターへの正当な対価を守るという側面もあるとは思うが、レコード会社における当面のビジネスを守るという側面の方が強いのではないか。巨大なレコード会社も、あくまで音楽産業の1部分である。現在は「Pandora」や「Spotify」のように、広告の表示を受け入れれば、無料で100万曲や1600万曲といった単位の楽曲を自由に聴く事ができるサービスまで登場した。音楽の物理的複製物を大量流通させ大量販売し、莫大な収益を上げるばかりが音楽ビジネスではなくなった。音楽データを1曲ごとに有料で配信する事すら古臭くなりつつある時代だ。もはや高度な携帯情報端末やインターネットが存在しなかった時代とは全く別な世界なのだ。ミュージシャンもレコード会社も音楽を愛する消費者の立場に立って議論するべき時ではないか。利益を生み出すために一番重要なのは、ビジネスの論理で単に規制を強化する事ではなく、音楽を愛するユーザーの生き方を想像できる力だと思う。

音楽業界にいた者として、“違法ダウンロード刑事罰化“を考えてみる。(その1)  

音楽業界にいた者として、“違法ダウンロード刑事罰化“を考えてみる。(その2) 

2012年7月4日水曜日

音楽業界にいた者として、“違法ダウンロード刑事罰化“を考えてみる。(その2)

 音楽ビジネスは、権利ビジネスである。それに関連する法律も権利の内容も、非常に複雑だ。私自身も、到底全てを把握しきっている訳ではない。ここでは要素を絞り、本来なら複雑な話を敢えて単純化して、要点を御説明したい。

2. 音楽と権利・法律

 音楽ビジネスでは、音楽を制作する費用を出した者の権利を「原盤権」という。原盤権の保有者に配分される対価が「原盤印税」である。「原盤印税」は、例えば「CDの出荷枚数×20%(10%)」というように、CDの出荷枚数に20%や10%といった“みなし”の返品率をかけて基準となる数量が計算される。売れた枚数ではなく、出荷した枚数を基に計算されるのだ。個々のミュージシャンや個々の楽曲により契約内容が違うので、ハッキリとした数字を出す事はできない。音楽業界には、特有の「アドバンス(前払い原盤印税)」というものも存在する。この場合、1回支払われた前払い印税は返還しなくても良い事になっている。これらの事を考えると、次のような状況が発生し得る。これはあくまで、例えばの話だ。CDアルバムを初回50万枚出荷する。50万枚分で原盤印税が計算され、契約の範囲内での金額が原盤権保有者に支払われる事になる。つまり初回の出荷枚数が多ければ多いほど、一時的に大きな金額が動く事になる(その後は、例えば四半期毎に印税計算が行われたりする)。だが1年後、数十万枚が売れ残り返品される事となった。結果的には、CDが売れていない。故に、最終的には赤字になる。原盤印税の保有比率は、各ミュージシャン、各楽曲によって契約内容が違う。ミュージシャンの所属プロダクションが100%保有する場合もあるし、レコード会社が100%保有する場合もあり得る。プロダクションが70%、レコード会社が30%というように共同保有の場合もある。音源の制作費を分散出資し、リスクを低減させるのだ。各々のミュージシャンとの契約内容によって、細かい条件が様々に違う。しかし最終的に発生する損害は、業界の慣例上、レコード会社の持ち出しになる場合が多いのではないかと思う。

 上記の仕組みを利用すると、理論上は様々な事が考えられる。例えば、 決算期が近づく頃。どうしても売上金額を作りたい場合。合計30万枚分のCD入荷を、小売りや卸しに分散して頼み込む最終的に返品しても構わないから、という約束で今期内に受け入れてもらうのだ。今期内に30万枚出荷出来れば、それでまとまった金額を作れる。翌期になったら、返品してもらう。こうすれば前期の決算に関しては、数字を取り繕う事ができる。この場合も、原盤印税は出荷枚数に返品率をかけて計算される。翌期に赤字が付いて回るのは別途考えるのだ。大ヒット曲が生まれれば、赤字分を何とか解消出来る…。これはあくまで理論上の話であって、実際に行われているかは全く別の話である。この話は、出版業界の委託販売という仕組みを連想させる。出版社が生み出した本は、まず卸しを担当する“取次”が買い取る。そのタイミングで、出版社には取次からの現金が売上として入って来る。本は全国の書店に配送されるが、書店は売れ残った分を返品できる。返品分は、取次から出版社へと代金を請求される。出版社は、この代金を支払うために、新たに本を生み出す。自転車操業のような状態だ。

 日本のCDは、“再販売価格維持制度”という法律で守られている。 再販売価格維持制度は、「定価販売」を義務付ける法律だ。新聞、雑誌、書籍、音楽CD、音楽テープ、レコード盤の6品目は、文化の発展や情報の普及に貢献するものとして、この制度の適用が認められており、独占禁止法の適用を除外されている。つまりCDには、価格競争が発生しないのだ。この制度には期限が設けられている。古本や中古CDなどが安売りされるのは、価格保持期限を過ぎた商品だからだ。(ちなみに、DVDなどの映像商品は再販制度の適用品目ではない。)しばしば、この制度の廃止を求める声が上がる。しかしその都度、音楽業界は、この制度を維持するよう当局へ必死に働きかけて来た。この制度は、日本以外の国では既に廃止されているようだ。

 ところで音楽配信では、そもそも出荷枚数という概念が発生しない。音楽を売りたい者が登録料を支払って、1つのデータをサーバにのせてもらうだけだ。 その後は、消費者によって楽曲がダウンロードされる毎に、売上が発生する。CDの場合と状況が大きく違う。印税の配分に関して、根本的に契約内容を見直す事になるだろう。ここでは、数%の違いを巡って、関係各位のシビアな交渉が展開されるのだと推測する。また音楽配信は、再販売価格維持制度の適用外だ。海外の配信事業者との間で、激しい価格交渉が行われていると想像する。

 これまで述べて来たように、同じ楽曲でも、CDで売れるのと音楽配信で売れるのとでは大きな差があるのだ。音楽業界には、CDが存続して欲しい理由があった。“違法ダウンロード刑事罰化”の背景には、現在の音楽業界が如何に苦しい状況に置かれているのか透けて見える。音楽業界にとっては、CDの生産金額が急激に減少するのは、本当にキツイのだ。減少する分を、音楽配信により金額ベースで補えれば良い、というシンプルな話ではないのだ。CDの生産金額は、ピーク時の半分以下に落ち込んでしまった。しかも、音楽配信市場まで対前年比で16%減少してしまった。減少に歯止めをかける可能性が、ほんの僅かでもあるなら、打てる手は全て打ちたいのだろう。

 長らく日本の音楽業界に染み付いている慣習と既得権益そしてビジネスモデル。音楽業界は、根源的な変革を迫られているのだ。表面的な売上の数字にだけ捕らわれていても、根源的な問題は何も解決しない。日本のエンターテインメントの歴史は、言わば数々の偉大な先人たちが、大切に綴って来た1ページ1ページの積み重ねだ。我々の世代も、大切に1ページを書き加え、次の世代に引き継がなければならない。今の日本は、電機、エネルギー、医療、食品 etc. 根底からの変革を求められる業界が溢れている。音楽業界に限らず、巨大な壁を乗り越えることに挑んで欲しい…。

2012年7月2日月曜日

音楽業界にいた者として、“違法ダウンロード刑事罰化“を考えてみる。(その1)

 私は、17年間レコード会社に在籍していた。その間、数えきれないほど多くのミュージシャン達と、音楽グラフィック・デザインに関連する仕事をした。今回は、音楽業界に身を置いていた者として、“違法ダウンロード刑事罰化”について考えてみたい。違法ダウンロードへの刑事罰導入を盛り込んだ著作権法改正案は、2012年6月20日に成立した。10月1日に施行され、違法にアップロードされた音楽ファイルなどをダウンロードする行為に2年以下の懲役または200万円以下の罰金(親告罪)が科されることになったのだ。この法改正の主な理由の1つは、“このまま違法ダウンロードを放置すれば、音楽の売上は減少し続け、音楽という日本文化を守る事ができない”というものだろう。しかし私は、この法改正によって、音楽の売上が伸びたり減少に歯止めがかかるのか疑問を抱いている。法律学的な細かい議論は専門家にお願いし、私自身、これからも学んで行きたいと思っている。ここでは、なぜ音楽業界がこのような方向に走ったのか。今後、エンターテインメント業界は、どのような方向に進んで行くべきなのかを考えたい。1. なぜ音楽が売れなくなったのか 2. 音楽と権利・法律 3. iPadなどの新しいメディアインフラが、音楽や映画に与える影響 以上の3点から考察する。音楽業界の問題を考える事は、他の業界の問題を考える事にも必ず役立つと思う。

 1. なぜ音楽が売れなくなったのか

 音楽が売れなくなった原因は、少子高齢化、メディアの多様化、楽曲の品質低下など様々な要因が複合的に絡んでいる可能性が高く、簡単に説明できるような問題ではない。ここでいう「音楽」には、CD、配信データ、ライブ・パフォーマンスなど様々な要素が含まれる。CDの売上が著しく低下した代わりに、ライブ事業や音楽出版事業の市場規模拡大に期待する意見もある。しかし、音楽業界にいた私の経験で言えば、ライブで大きな利益を出すのは本当に難しかったはずだ。ライブ事業を行うのは、主に、ミュージシャンが所属するプロダクションである。レコード会社本体が、直接ライブ事業を行う訳ではない。ライブの制作には多大な経費が必要だ。ライブツアーを敢行するには、レコード会社の援助やスポンサー企業からの協賛金が欠かせなかった。チケット料金やグッズの売上だけで回せるような状態ではない事が多かったと記憶している。私はレコード会社を去って久しいが、今でも状況は大きくは変わっていないと推測する。援助するレコード会社は、主にCDで利益を出すのだから、CDが売れなければ、ライブツアーの資金繰りも結局は厳しくなってしまう。小さなライブハウスであれば制作費は少なくて済むが、集客も売上も小さくなってしまう。巨大化した音楽産業は、それだけではとても維持出来ない。そもそも、無名の新人ミュージシャンのライブに大量集客する事が難しい。故に、まず小さなライブハウスからスタートして、次にCDを聴くリスナーを増やす。その後、大規模なライブツアーに来ていただけるリスナーを増やすのが基本だ。日本の音楽産業を支えているのは、今でも、CDの売上である。縮小するCDの市場規模は今でも、ライブ事業よりも大きい。

 CDの市場規模が縮小を続けるなら、それに伴ってレコード会社も縮小するしかない。全く新しい音楽ビジネスモデルが確立すれば、レコード会社に変わって新しい企業体が中心に躍り出る可能性もある。音楽産業全体の市場規模は、拡大に転じるかもしれない。私は、音楽の売上が低下している事よりも、音楽の存在感が薄れている事が重要な問題だと考える。

 私は、現在40代である。私が高校生、大学生だった頃は、携帯電話もインターネットもブログもTwitterも存在しなかった。そのような時代に、世代感覚を確認・共有する事は簡単ではない。周りの友人達と語らえば、志向性や問題意識を確認し共有できる。しかし日本という国全体で、自分と同じような志向性・問題意識を持っている同世代の人間が、どれくら存在するのか。それを知る事は難しい。そのような時代に、音楽や映画は、世代感覚を確認・共有するコミュニケーション・ツールとしての側面を持っていた。

 例えば「尾崎豊」。私は、熱烈な尾崎ファンではないし、彼のライブに行った事も無い。それでも、彼の音楽世界に登場する校内暴力の描写に心を動かされた。尾崎の歌う“心の葛藤”には、共感するものがあった。自分が共感した音楽を友人に薦める。すると、その友人が別の友人に薦める。尾崎の音楽には、私の世代の共通感覚が表現されていた。ライブに参加すれば、同じ様に共感している多数の同世代を目にする事になる。自分と同じ志向性、問題意識を持っている同世代の人間が、これほど多くいるのかと確認できるのだ。ミュージシャンは、自分に変わってメッセージを世界に発信してくれる代弁者だった。自分の愛する音楽や映画を表明する事は、自分を表現する事だった。自分の愛する音楽や映画が世間に広まって行く事は、自分の発信したいメッセージが世間に広がって行く事だった。

 だが、今は全く別な世界になった。テクノロジーを駆使して、誰でも手軽に、メッセージを発信し共有できる。スマートフォンとインターネットを使えば、写真や文章を世界に向けて投稿できるし、他の人々の投稿を見れば、自分と同じ志向性・問題意識を持った人々を具体的に確認できる。ブログで自分の哲学を表明し、世界中の人々とコミュニケーションを図る事もできる。このような時代の音楽は、コミュニケーション・ツールという側面の役割が低下する事は止むを得ないだろう。音楽は、他の側面での役割も果たさなければならない。

 音楽業界は、「音楽とは何か?」「音楽の果たせる役割とは?」といった根源的な問題に、もう一度真剣に向き合わなければならない。 表面的な売上を取り繕う事に終始していても、何も解決しない。

(その2)へ続く…